3.寛永寺清水観音堂

上野にもあった”清水の舞台”!

上野にある「東叡山寛永寺」は、寛永8年、二代将軍徳川秀忠から寄進された現在の地に、天海僧正によって開山されました。

当時、京都の鬼門を守るのが比叡山延暦寺でしたので、それを真似て江戸を守る“東の比叡山”として建てられました。

そして寛永寺の観音堂として建立されたのが「清水観音堂」です。

「清水観音堂」は、その名のとおり、京都・清水寺を模したものです。
清水寺の義乗院春海上人から、同寺安置の千手観世音菩薩像が天海大僧正に奉納されたことにちなみ、清水寺と同じ舞台も造られました。

これは比叡山の畔に琵琶湖があるように、東叡山の畔に不忍池があり、それを清水観音堂から眺められるようにとの事。
何もかも徹底してますね(笑)。

また、広重の浮世絵で有名な名所江戸百景。
その中に”上野清水堂不忍ノ池”と”上野山内月のまつ”というものがあり、その中に描かれた『月の松』
松の枝を丸くし月をかたどった、当時大変評判だった松は、上野のシンボル的存在でした。

明治初期の台風の被害で無くなってしまってから150年余り。
この度、浮世絵にも描かれていた江戸の風景を復活させるため2012年に復元されたのです。

その松から望む参道の先には弁天堂。なんとも言えない計算された景色です。
そして、その先にはビル…(笑)
現代の姿がそこにありました。

こちらが清水観音堂でいただける、御朱印。
先ほどの「上野大仏」「パゴダ」の御朱印と合わせて、3種類いただけます。

中央には、”千手観世音”と書かれております。

4.五條天神社

上野東照宮より、不忍池の方へ向かった場所にあるのが、こちら「五條天神社」です。

ちょうど、上野精養軒の南側に位置します。
忍坂にそって、大き目の鳥居があるのでわかると思います。

こちらの御由緒は、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐の為、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神(二柱)の大神に御加護を頂いた事を感謝なされて、この地に両神をお祀りなされました。

相殿にお祀りしてあります菅原道真公は、寛永十八年(約350年前)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮とも云われました。

”天神社”と言われるくらいなので、境内には梅の花がたくさん植えられておりました。
数は多くありませんが、いろいろな種類があり、目を楽しませてくれます。

こちらの神社も紆余曲折ありましたが、現在の社殿は、昭和三年(1928)に竣工されました。

また薬祖神の神を祀るこちらは、毎月10日に医薬祭が行われているようです。

こちらの御朱印は、朱印のみが押されたシンプルなものになってます。
また、朱印も2種類あって、大・小どちらがいいか、聞かれます。
欲しい方を告げてください。

社務所は、この後紹介する花園稲荷神社と一緒になっているようで、御朱印も両方の対応をしてくださいます。
必ず、どちらのものが欲しいがお伝えください。

5.花園稲荷神社

上野公園は、桜で有名ですが、こちらの境内には、早咲きの河津桜も咲いておりました。
まだ若い苗木ですが、近い将来、みんなを楽しませてくれる存在に、きっとなるでしょう。

そして、五條天神社と同じ境内にあるのが、「花園稲荷神社」です。

こちらの創建について、はっきりした事はわかっていないようですが、昔からこの地にあったとされる神社で、古くは“穴の稲荷”、“忍岡稲荷”などと呼ばれていたとのことです。

観光客の多い上野にありますので、かなりの人気スポットになってます。
ただ、私が行った時は、あまり混雑はしておらず、ゆっくりとお詣りすることができました。

ここの入口付近にも、稲荷神社特有のいくつも連なる赤い鳥居が見られます。
これが外国人の方には、人気の撮影スポットになっているようです。

現在の社殿は、1928(昭和3)年にこの場所に遷されました。

こちらの神社で、特に強力なパワスポと言われているのが、花園稲荷神社の旧社殿跡
“お穴様”と親しまれているその場所は、いまもひっそりと佇んでいます。

ご祭神は、お稲荷さまこと倉稲魂命(うかのみたまのみこと)です。
一般的にお稲荷さんのご利益といえば商売繁盛が有名ですが、こちらのお稲荷さまは“安産の神さま”としてのご神徳もあるそうで、縁結び、夫婦和合、子授けのほか、金運アップのご利益もあります。

上野散歩のついでに、良縁祈願♡
良きご縁を結びたい方は、ぜひ、こちらの神社をお詣りくださいね。

こちらが御朱印になります。
こちらも、朱印だけのものになってます。

拝殿向かって左手に、小さな社務所がありますが、不在の事もあるようで、その場合は、先ほど紹介した「五條天神社」の社務所でいただけます。

6.寛永寺

江戸の鬼門を守り続けた徳川家繁栄の礎!

上野にある「東叡山寛永寺」は、寛永8年、二代将軍徳川秀忠から寄進された現在の地に、天海僧正によって開山されました。

当時、京都の鬼門を守るのが比叡山延暦寺でしたので、それを真似て江戸を守る“東の比叡山”として建てられました。

最盛期の寛永寺の境内は、現在の上野公園を中心に35万坪もの広さがありました。
根本中堂(総本堂)は間口45m・高さ32m・奥行き42mの壮大なものだったと伝えられています。

徳川家の庇護を受けて栄華を誇った寛永寺ですが、幕末に起こった戊辰戦争で境内に彰義隊が立てこもったため、伽藍のほとんどが兵火によって消失。

現在の根本中堂は、川越喜多院より本地堂を移築しました。
御本尊は、最澄が自刻したと伝えられている薬師瑠璃光如来像(国指定重要文化財)秘仏になってます。

また、幕末に十五代将軍徳川慶喜公が謹慎蟄居なされたのが、こちらの「葵の間」です。
いまでもその部屋はそのままになっているそうです。

その他、寛永寺の御霊廟には六名の将軍(四代家綱公、五代綱吉公、八代吉宗公、十代家治(いえはる)公、十一代家斉(いえなり)公、十三代家定(いえさだ)公)が埋葬されています。
こちら、通常は非公開となっています。(予約により見られるようです)

上野の歴史語る上では、重要な役割の「寛永寺」
徳川が繁栄した江戸の街に想いを馳せながら、ぜひ、お詣りしてみてください♪

こちらが寛永寺の御朱印です。
本堂中、左手に受付があります。

実は、こちらの御朱印は、その墨書きの美しさから、御朱印ガールの間ではかなりの人気のもの。
数多くの書籍でも紹介されており、場合によっては、いただくまでにとても時間がかかることがあります。
なので、時間に余裕を持ってお出かけされるといいかもしれません。