百済の武王の王宮があった場所です。韓国の古代の王宮としては初めて外郭の塀が見つかった貴重な遺跡。まだ見つかったばかりで、韓国の歴史の教科書にも内容が記されていないのだとか。
住所:全羅北道益山市王宮面宮城路666
電話:063‐859‐4631
住所:9:00~18:00
休館:月曜、1月1日
もともと公園として利用されていたこの場所には、昔からの石塔がひとつだけ建っていました。遠足でおとずれた子供たちがよじ登ったり、落書きをされたりしながらこの場所にありました。大昔に何かがここにあったのだろうということは、地元でも噂されていたそうです。発掘調査によって驚くべき事実が判明しました。
今まで韓国の歴史書に書かれていなかった百済の王宮がこの地にあったことがわかったのです。唐と連合した新羅滅ぼされた百済の人々は、その後日本に渡って多くの技術が伝えられました。日本の文化の礎がここにあったと思うと、ロマンが広がりますね。
王が政事を行っていた正殿を始めとした14の建物、庭園の遺跡、陶磁器工房、大型便所など遺跡が発掘され、現在も発掘作業が続いています。日本の遺跡の情報も参考にしながら、当時のトイレの様子が復元されていました。
ひとつだけの残されていた五重の石塔を、修復のために解体すると、なんと中から経文や仏像などを発見! いままで身近にあった石塔に、こんなお宝が隠されていたなんてびっくりですね。
たくさんの瓦も出土されており、博物館の中では百済時代の瓦に実際にさわることもできます。さて今度は、弥勒寺に移動します。
王宮里遺跡から6㎞ほど離れた場所には、百済最大の寺院である弥勒寺があります。新羅の善花王女と結婚して王になった武王がこの地を訪れたとき、池の中から弥勒三尊が現れ、ここに弥勒寺を創建することになったと伝わります。
住所:全羅北道 益山市 金馬面 弥勒寺址路362
電話:063‐859‐3873
住所:9:00~18:00
休館:月曜、1月1日
南に正門があり、中央には木造建築物があったとされ、日本法隆寺などの建物を参考に模型として復元されています。一説には90mあったともいわれ、事実であれば法隆寺(31.5m)の三倍近い高さになります。その塔の東西に高さ48mの九重の石塔があり、西の石塔は一部現存していました。
旗を掲げた竿を支える支柱「幢竿支柱」もひとつだけ現存しています。花崗岩を磨いたもので高さは4m。90mの間隔をあけて東西に2基建てられていたいいます。
西の石塔は、日本統治時代に、崩れそうになっているのを日本軍がセメントで固めました。その頃の様子の石塔も模型があります。
かつて韓国では、醜く屈辱的な遺構と見なされていましたが、セメントのおかげで遺跡がのこり、当時の日本軍が残した写真等の資料で復元できたことから、現在は180度評価が変わっているそうです。
その他、5100点の遺物が出土しています。2009年に西の石塔解体の途中に、金の舎利壺と舎利奉迎記、ガラス玉も発見されました。