叡電一乗寺駅から山側に歩き、有名な詩仙堂のすぐ隣にあるのがこの八大神社。
この八大神社の境内地である一乗寺下り松(さがりまつ)にて、慶長九年(1604年)、剣聖宮本武蔵が吉岡一門と決闘したと伝えられています。 そして、彼は下り松の決闘の前に八大神社に訪れ、自身の剣の道について新しい悟りを得たといいます。このエピソードは、様々な文学作品においても彼の人生のターニングポイントの一つとして描かれています。
「巌流島の決闘」のエピソードなどは有名ですが、ところで宮本武蔵ってどの時代のどういう人かご存知ですか??個人的には、数々の武将や維新の功労者と違って、政治の歴史的な変革に関連した活動で知られるわけではないので、あんまり時代感がピンときていませんでした。
江戸時代なら、基本的に侍は藩に属しているのに全国を転々としているということは浪人なのかな…?
歴史的な記述によれば、宮本武蔵は天正12年(1584年)頃に名家・新免無二の子として生まれたと伝わっています。母は不詳。出身地は播磨とされますが、美作国宮本村で生まれたため「宮本」と称したとする説もあります。
戦国時代の終わりに生まれ、混乱の世の中から江戸時代の太平の世への移行期に、剣道によって身を立てた人物のようですね。
「五輪書」では、宮本武蔵が13歳の時に、初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘して勝利したとあり、16歳の時には但馬の秋山と言う兵法者にも勝利するなど、29歳までに60回ほどの勝負にすべて勝ったと記載されています。
そして、1600年の関ヶ原の戦いに雑兵として参加したと言われています。黒田家の家臣に加わっていたとする黒田家の文書も残っているとか。
その後、21歳の頃に京に赴くと、京で名の知れた剣豪らにすべて勝利したとされます。その戦いの一つが、この八大神社の境内地で行われた「下り松の決闘」です。
ちなみに、神社の境内に、この当時から明治時代まで植わっていた本物の下り松の古木があります。
伝説によると、武蔵は決闘の日の未明、この神社に通りかかり 「一勝させたまへ。今日こそは武蔵が一生の大事。」 と祈ろうとしました。
しかしなぜか鈴を振らず、祈りもせず、決闘の場へ向かったのであります。
『我れ神仏を尊んで、神仏を恃まず』
「神仏は尊ぶが、頼りはしない」。そのココロは「己の技こそ真実である」。
武蔵は、自分の壁書としていた独行道のうちに、この「我れ神仏を尊んで神仏を恃(たの)まず」を書き記しており、この悟りを得たのが、決闘の日の八大神社への参拝の時だったと伝わっているのです。
現代でも受験などなどで神頼みしちゃう人が多いですが、どのような結果でも受け止めるという境地に達した武蔵にとって剣の道こそ信仰のようなものであったということが感じられます。
八大神社の帰り道には、ハイキングがてら立ち寄れる魅力的なお店がたくさんあります。「でっちようかん」のお店だったり、一乗寺・修学院エリアのスイーツだったり。
さて、武蔵の足跡をたどるように、神社から下りながら下り松に向かいましょう。
ここで武蔵は吉岡一門の数十人の剣士と戦って勝利したと言われています。現在の松は、神社の境内にあるオリジナルから数えて5代目だそう。
作家・吉川栄治は、先述の悟りを開いたことの意義について、「武蔵にこの開悟を与えたことに依って、一乗寺下り松の果し合いはただの意趣喧嘩とはちがう一つの意味を持ったものと僕はそう解釈する。」『随筆 宮本武蔵』(講談社)と書いています。
おそらく、江戸時代の初め、身分や所属のあいまいな剣士だったり、政治的にそこまで強くないので剣道でのし上がろうとした侍ってたくさん居たと思うんですが、そのような中で宮本武蔵という人が今に至るまで語り継がれる存在になったのも、彼の剣道に対する向き合い方、崇高な精神性を伝えるものがたくさんあるからでしょう。政治的には大した影響もない剣士の「喧嘩」が、「~~の決闘」として歴史に名を残していること、そしてそこから文学的な想像をかきたてられることのおもしろさを感じます。