成田山新勝寺からは、距離にして6kmほど。
車で10分くらいの場所にあるこちらのお寺。
地元の方には、「宗吾様」と呼ばれているこちらは、
正式な名前を「鳴鐘山東勝寺」といいます。
通称、「宗吾霊堂」です。
駐車場に車を停め、
短い参道を歩いて行くと、立派な仁王門が見えてきます。
昭和53年に、宗吾様の325年忌記念事業として造られたものだそうです。
どうりで新しくみえました。
内部にいらっしゃる仁王尊は、高さが8尺8寸。
鋳造・金箔仕上げで、
我が国で唯一の金色仁王尊だとも言われております。
仁王門をくぐり、中に入ると、
右手に見えるのが「鐘楼堂」
こちらは昭和27年、
宗吾霊300年祭記念事業として建立されました。
梵鐘は、仁王像を製作した香取正彦氏と、
その親の秀真氏との共作なんだそうです。
手前には、美しく植栽された庭園があります。
が、この時は、まだ”冬の景色”でした。
唯一、河津桜が春の訪れを告げておりました♪
まずは、こちらの縁起を簡単に…
こちらの寺院としての縁起は、
桓武天皇の時代に、征夷大将軍・坂上田村麻呂が房総を平定し、
戦没者供養のため建立された、真言宗豊山派の寺院が始まりとされています。
その後、時代は江戸に移ります。
4代将軍徳川家綱の時代、今から約360年前のことです。
長く続く凶作と、過酷な重税に苦しむ農民たちを救うため、
木内惣五郎(佐倉宗吾)ら6人の名主たちが、幕府に農民の窮状を訴えました。
しかし、その願いは受入れられず…
木内惣五郎は、考え抜いた末に、
当時禁じられていた将軍への直訴を決行することに。
この直訴により、農民たちを苦しめていた重税が見直され、
村々の願いはかなえられました。
しかし、当の惣五郎は処刑されることに…
しかも、その家族までもが犠牲になってしまったのです。
このお墓も、当時の住職が、遺骸を刑場跡に埋葬した、その跡だと言われています。
それから100年後、
惣五郎には「宗吾道閑居士」の法号が与えられ、
やっと、その功績が認められる事となります。
以来「宗吾様」と呼ばれるようになったそうです。
こちらの屋根は入母屋造り銅版葺き、
正面中央には千鳥破風を付けたお堂で、
現在は、薬師瑠璃光如来をお祀りしています。
以前は供養堂であり、五霊堂でありました。
ちなみに、五霊堂とは宗吾様と共に直訴を行い、
その罪で佐倉領を追放となった、五人の名主を祀るお堂でした。
現在は、その五人の御霊も本堂に移されております。
桜とお堂のコラボが、とても美しい姿で、
しばし、足を止めて、見入ってしまいました。
こちらは大本坊。
昭和17年に建立されたそうで、
300余畳の大広間があり、
信徒講社の坊入り(お食事)や休憩、
研修道場・宿泊等に使用されているそうです。
こちらも桜が美しい!
枝ぶりが何とも言えず、計算されたようです。
突き当りに見えるのが、宗吾霊堂大本堂です。
真っ直ぐに伸びた参道、そして、立派な本堂が、
きちんとお手入れされた、美しい境内に建っております。
大正10年に8ヶ月の歳月を費やし、
十間四面総欅造り総銅瓦葺現本堂を再建。
ご本尊には、宗吾様の霊を祀っております。
向かって左手に見えるのが、寺務所。
こちらで御朱印やお札、お守りなどをいただくことができます。
苦しむ人々を何とか助けようと、
自分の命を惜しむことなく、
当時ではタブーとされていた、将軍への直訴。
願いは遂げたものの、家族ものとも死罪。
42歳という若さでこの世を去った、惣五郎。
いま、こうして仏となり、
再びわたしたちに、その強い志を持つ意味を
教えてくださっているような気がします。
こんなに平和で、豊かな世の中だからこそ、
すべての事に感謝し、
いま、自分に何ができるか、
何をするべきなのか。
改めて、考えてみるのもいいかもしれません。
ちなみに、ここは春の桜も美しいですが、
秋の紅葉、そして、梅雨の時期の紫陽花が特に見事なんだとか…
また、その時期に訪れてみたいと思っております♪
宗吾霊堂にお詣りしたら、
合わせてこちらにも
お詣りされてみてはいかがでしょうか?
距離にして1.4kmほどにある、
「麻賀多神社」
こちらには、樹齢1300年を超えるご神木があり、
その大きさは、東日本一の大杉としても有名なのです。
延命長寿のご利益のあるパワースポットとして、
たくさんの方がお詣りされております。
こちらは、またゆっくりとご紹介させていただきます。